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【アラベスク】  第14章 kiss



第2節 本気の証 [16]




 美鶴を、取られてしまうのだろうか?
 考えたくなかった。そんな事実なら、知りたくもないとすら思った。美鶴との関係が壊れてしまうのならいっそ会わない方がいいなんて、そんな弱音を吐きそうになる一方で、心のどこかでは、今回も結局は許してもらえるのではないか、といった甘い期待を持ってしまう別の自分も居た。
 情けなく思った。
 俺は、馬鹿だ。
 重い心を引き摺るようにして駅舎へ向かうと、美鶴は一人で座っていた。扉を開ける音にチラリと視線を向け、後は黙って本と向い合う。
 珍しい。予習や復習ではなく、読書をしている。図書館ででも借りてきたのだろうか?
 聡の存在には気付いているはずなのに一言も発しない相手に気まずさを感じ、聡は無言で鞄を机の上へ置いた。それでも美鶴は何も反応しない。
「よう」
 溜まらず聡が口を開く。
「あの、その…」
 謝らなければ。まずは謝らなければならない。
 そう心が急き立てるのに、言葉が出ない。
「その、昨日は」
 意を決して息を吸った聡の言葉を、ハッキリとした声音が遮る。
「もうすぐ瑠駆真も来ると思う。それまで待って」
 静かな、それでいて威圧も感じさせるような声だった。聡は言葉に詰まった。
「瑠駆真?」
「瑠駆真も呼んである」
「何で?」
 戸惑う聡を一瞬だけ見上げる。
「話があるから」
 ギュッと、胸を鷲掴みにされるような苦しみ。
 まさか、二人揃って交際宣言でもする気だろうか?
 嫌だ。そんなのは聞きたくない。
 聡は机に両手を付いて乗り出した。ダンッと激しい音がして机が揺れる。
「美鶴、俺が悪かった」
 あれほど躊躇っていた言葉がスルリと出てくる。追い込まれればあっさりと言える。自分はなんて情けないんだ。
 自嘲しながら、音に驚いて顔をあげる美鶴を見下ろす。
「本当に俺が悪かった。ごめん。謝る。だから、だから…」
 呼吸を乱して謝罪する聡の顔を見つめ、しばらくして美鶴が口を開く。
「私も悪かった」
「え?」
 思わぬ言葉に、聡は絶句する。目を丸くして言葉を失う相手から、美鶴は視線を逸らす。
「態度をはっきりさせなかった、私が悪かったんだ」
 そうだ。聡だけが悪かったワケじゃない。瑠駆真も同じだ。
 美鶴は瞳を閉じる。
 自分が臆病だったのだ。臆病な事は罪な事だと、何かの本に書いてあった。今ならその言葉の意味が、少しだけわかる。
「悪かった」
 言うなり本へ視線を戻す美鶴を、聡は唖然としたまま見下ろす。
 態度をはっきりさせなかった? それって、やっぱり。
 猛烈な勢いで焦慮が聡を包む。
 もう終わりか? 間に合わないのか?
 小さな眩暈すら感じて一歩下がった時だった。
「聡?」
 振り返る先には、瑠駆真の姿。目が合い、二人は無言で向かい合う。
 男らしさを備えた端正な顔立ちと、混血独特の甘さを漂わせた瞳。どちらも魅力的なのに、お互いの良さばかりが気になってしまう。
 睨み合いとも違う不思議な感覚から、先に瑠駆真が無言で目を逸らした。そうして聡の背後を見る。
「遅くなった」
 いつもならここで、また女どもにでも囲まれていたのか? などといった嫌味が飛び出してくるはず。だが美鶴は瑠駆真の言葉にパタンと本を閉じると、黙って大きく息を吸った。そうしてゆっくりと、できるだけ大袈裟にならぬようゆっくりと立ち上がり、瞳を閉じてもう一度息を吸った。そうして顔をあげた。
 向けられた瞳に、二人の少年は生唾を呑んだ。
 覚悟しなければならない。
 本能が、聡と瑠駆真にそう告げた時だった。
「私、好きな人がいるんだ」
 時が止まったと思った。
「だから、お前たちの気持ちは受け取れない」
「誰?」
 口を開いたのは瑠駆真だった。聡は瞬きすらできないでいる。いや、瑠駆真だって同じようなものだ。声が出たのは単なる反射的反応。
「誰なの?」
 一拍置き、逃げ出したい思いを必死に押さえ込んで、美鶴は口を開いた。
「霞流さん」
 怖かった。ずっと怖かった。何が怖いのかもわからぬまま、ずっと怯えていた。
 自分がどうしようもない臆病者だという事は、もうとっくにわかっていた。自分を好きだと言ってくれる聡や瑠駆真や、己を変えようとするツバサの姿に、このままではいけないという思いも少しずつ膨らんでいった。霞流慎二の本性を目の前にして、それでも諦めきれない自分も知った。偏見を持たれるような愛情を、それでも自信を持って口にする幸田の姿には羨ましいとも思った。ひょっとしたら、自分に会いたいと言っている里奈(りな)の存在だって、大きいのかもしれない。
 これだけの材料が揃っていながら、それでも美鶴は、どこかで逃げようとしていた。誤魔化せるものならそうしたい。言わずに済むならそうしたい。そうやって、卑しく逃げていた。
 馬鹿馬鹿しい。呆れる。くだらない。霞流に見下されても文句は言えない。
 でも、それではダメなのだ。
「私、霞流さんの事が好きだから、だから聡の気持ちも瑠駆真の気持ちも受け取れない」
 ごめん、と下げられる頭がぼんやりと見える。
「うそ、だろ?」
 小さく呟く。
 嘘だろ? 美鶴が? あの男の事が好き?
 聡の頭はグルグル回る。
 そりゃあ、美鶴はあの男に対してやたらと擁護するようなことばっかりを口にしていた。富丘(とみおか)ってところの屋敷に居候してた時には、奴の前ではいつもの強気も鳴りを潜めちまってたし、見ていて正直焦りもした。金持ちは嫌うクセにアイツの味方になるようなコトばっか言ってて、腹も立った。
 だけど、それはただ奴の見栄えがちょっといいだけで。
 目の前で、細く切れた瞳が揺れる。冷たく、でも甘く、艶やかで気障(きざ)な色気を漂わせた瞳が、薄い髪の毛を従えてぼんやりと浮かび上がる。それはまるで蜃気楼のように不確かで、でもとても目障りで、笑うように揺らぐ。陽炎のようにゆらゆらと。
 灼熱の、陽炎。
「あ」
 小さな瞳を見開いて、聡は声を出した。
「京都か」
 言うと同時に瞬きする。
「京都なんだな?」
「え?」
 突然の言葉にやや戸惑う美鶴の瞳をまっすぐに見つめ、聡はぐっと両手の拳を握った。
「京都で、何かあったんだな?」
 美鶴の耳に、水音が響く。
「あの、京都って?」
 口ごもる美鶴の肩を両手で掴む。
「京都で何があった?」
「あの」
「何があったんだ?」
「何を今さら」
「何かあったんだろう?」
 苛立ちを滲ませて畳み掛ける聡。美鶴は一歩下がろうと足を引く。だが、聡の両手がそれを許さない。
「何があった?」
「べ、別に何もない」
「無いわけないだろうっ」
「聡っ」
 瑠駆真が聡の手首を掴むが、聡はそれを邪険に払う。
「お前は黙ってろ」
 短く睨み、再び美鶴と向かい合う。
「何があった?」
「何も無い」
「じゃあ、何で」
 何で?
「何で霞流なんか好きになるんだよ?」
 何で好きになるのか?
 予想外の質問に、美鶴は正直面食らってしまった。







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